SAKANOUE.JP(さかのうえ・どっと・じぇーぴー)

 日記/雑感。   JAZZY_TRANS。  Zappin' Clippin'  写真たち。  サイト_マップ。
 プロフィール/来歴。  過去のTOP。  ご挨拶アーカイブ。  リンクス。  TOPへ戻る。

 

ジャジートランス 2000年10月の「まとめ」です。

星の光、ぼくの光

 

ぼくがネットを休んでる間、旅行してました。
行き先は群馬、長野、山梨。
今回の旅行はあるひとにとって最後の旅行かもしれないです。
ぼくはそのひとに呼ばれて一緒に行くことになりました。
そのひとは病気です。先生の診断は余命6ヶ月。
聞いたのは1ヶ月くらい前でした。

ぼくは今までに両親とおばあちゃんを送ってます。
またひとの死に向き合わないといけないのかって思うと
ずっと気持ちが重かった。
眠れないときが続いて、夢も見ました。

死んだお母さんが夢の中でもう一度死んでいてどろどろと
皮膚が溶けていく夢でした。
怖かった。

ひとはなんで死ぬんだろう。
ひとの一生ってなんだろう。
なんて短いんだろう。
それはぼくがいつも考えてることです。

今回の旅行でぼくが気づいたこと、そしてこの重い気持ちから
少しだけ抜け出したことを書きます。

ある番組のことが頭に残ってました。
宇宙のことをやっていて800万光年先の星の光がうつっていました。
でもその光は800万光年前のもので、今それを見ているひとのところに
届いた。もうその星があるかどうかも誰にもわからないんです。

その星の光が届いた時間に比べたら、人間の一生ってなんて短いんだろう。
その星は確かに輝いていたけど、ぼくらの一生は
きらっと光ったこともわからないほど短いんじゃないんだろうか?

たったそれだけの時間。

なぜひとはここにいて生きているんだろう?

誰もがそうは考えないかもしれないけど、
ぼくは生まれる前も死んだあともあるんだと思ってる。
その中でこの身体をもった姿が一番短くて苦しいんじゃないかと思う。

病気になったり、傷ついたり苦しんだり、つらいこともいっぱいある。
もちろんいいこともいっぱいあるけど。
そしていつか死ぬ。

でもね、
もしかしたらってぼくは思う。
ここから次の場所に行くためには、ここを、
この身体をもった姿のこの世界を通ってしか行けないんじゃないかって。
そういう意味が、ここにはあるんじゃないかって。

ぼくらは短い一生を生きる。
生きた時間はきらっと光ったか光らないかわからないほどの
時間で、でも確かにそこは光ったはず。

その小さな光は、いつかどこかに届くかもしれない。
それは自分が死んだあとも残るはず。
800万光年かけてぼくらの元に届いた光と同じように

ぼくらの光もまたどこかへ届く。
それに気づくのはずっとずっと後かもしれない。
でも、ぼくがここで生きたことは確かなことでずっと残るはず。
今ぼくらの上で光ってる星とぼくらは同じ。
だから、この短い時間はすごくすごく大切で
一分でも一秒でも大切に生きないといけない。
大事に一生懸命生きたぼくらの時間はずっと残ってどこかで光る。

ぼくたちはそのためにここにいる。
もしかしたら強い光を残す生き方もできるかもしれない。

絵を書く、音楽をやる、なんでもいいじゃん。それはすべて残る。
自分が生きた証明として残って光る。
そう考えたらいけないかな?

すごいことじゃん。
ぼくらはいなくなっても光りつづけるんだから。

旅行の間ずっとそんなことを思ってた。
元気をなくしそうなときは、あの800万光年前の光を思い出そうとおもう。
このことに通じてぼくの決意の話もあるけど
それはまたいつか書きます(笑)

                          ロンこ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとなく、書きたいと思ってた事が、形になりつつあったんやけど、、、
昨日の某国で死を迎えた人たちのことを思ったら、なんか、また、少し、、、
第一印象って言われたけど、もう少し、思わせて。。。      (おかん)

---

   北朝鮮、あるいはNY、あるいはアフガニスタンで死んでいった人たち、が、残した光。
    に、降り注がれる、ツラヌカレル、引き裂かれていく。この身。と、心。

   歴史と、恋愛に、惑う。この身。と、心。      (hiro)

---

随分前、中学生から高校生ぐらいだったと思う。
目に見えるもの以外のことを自分の中に取り込む事が
出来なくて、死、、っていうより、死後の世界がとても怖かった頃がある。
夜、布団に入って、朝このまま自分が死んでたらどうなるんだろう
って怖くて眠れなくて、そんなときに星を見ながら同じ様な事考えたな、って。(第一印象)

高校2年のとき、一緒に暮らしていた祖父の葬儀でこんな経験をしたの。
火葬場で、火を入れたとき、みんなは控え室いくんだけど、
あたしは、どうしても離れる事が出来なくて、炉の前で
ボロボロ泣きっぱなしで、、右隣に従姉妹(同い年)が心配してついててくれて、、、
そしたらね、左の肩をひっぱる人がいるん。振り向いても
従姉妹とあたしだけ、炉に向き直ると、また左肩を引っ張られて、、
従姉妹の「引っ張られる方に行ってみれば」の言葉に従って、火葬場の外に出たの。
そしたら、木立の間をすうーって、真っ白い雷鳥に似た鳥が綺麗に飛んで行くのが見えて、
指差して教えたけど、従姉妹には見えなくて、、
ちょうどそのとき、調子が悪くて火が上手く燃えていなかった炉が、
もえだして、煙りが黒から白に変わって、その鳥に引かれるように流れたの。
家に帰って、つらすぎて、火葬場にいけなかった祖母の側にいたの。
そのときに、いなかだから、葬儀には大きな花輪がかざられるんだけど、
その中央にさっき見た鳥(つくりもの)がいるのに初めて気が付いて、
祖母に「これさっきみたよ、雷鳥だよね?」って聞いたら
「いつ?いつみたの?これはね、この地方に伝わる『鳳凰』
よそでは、きれいな色で描かれてるけど、ほんとは、こんなふうにずんぐりむっくりしてて、
真っ白でね、死んだ人を浄土に連れて行ってくれる鳥なのよ」って。
従姉妹と二人でおどろいて、火葬場での話をしてあげたら
祖母はほほえんで、「じいさん、天国行けたんだね」って。。

宗教によっては、鳳凰なんて鳥が存在しないこともあるじゃない?
でも、それを信じていた祖父と祖母には見えたのよね。
(見たのは、あたしだけど、、、)
人間の死って、こういうものなんだ。通過点。
そんなことを漠然とだけど、あのときから考えられるようになったのかもなあ。

子供を産んで、また、死の概念みたいなものが、変わったけど、
続きはまた今度(^^)
長くなりましたm(_ _)m

てか、前ふりの某国の現実について感じた事は、また、別の機会に。
まずは、始めに書こうと思った事をかいてみました。      (おかん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人の一生って天の川の中の航跡みたい。いろいろな波を立てながら、
様々な光を発していて。そのいちいちの光が、その人の生を輝かせてるみたいな。

あ、ごめんなさい。ボケッとしてたらこんなになっちゃいました。(^^;もちっとよく考えてみたいと思いますです。

                          (ぎん太)

---

       きらきら光る、航跡。
       素敵なイメージですね^^

       僕は、いま、ここにいて。
       キラキラ光る、一瞬の命と、命が、連綿とつながる光の時間の河を。
       遠く、遠く。眺めている。

       だけじゃなくて。同時に。

       僕の命が、新しい流れを生み出す、光となる。

       鮮烈な。緑と、青とが、光る。
       そして、トランス。

       (hiro)

---

命。時間軸上の綱渡り。

なんか、そんな風に感じたことがありました。
一緒に酒飲んで騒ぎあった友達がいたのですがある日連絡を受けて駆けつけてみると、
警察のコンクリートの床の上で、シートに乗せられたままの姿で、静かに眠っていました。
ただ、司法監察が終わっていないというだけで。ヤツは自分で自分の生を閉じてしまいました。
訳は今でもわかりません。その結論を出すに至るまで、ヤツなりに苦しんだのかもしれません。
かく言う自分の所にもその2日まえに電話がありました。
今思えばなんで会いに行ってやら無かったのだろう、そればかり考えます。
葬儀の日にヤツを浄土へ旅立たせてくれたお坊さんと話せる時間がありました。
曰く「思い出してあげることです。そしてその中で彼にいっぱい語りかけてあげなさい」
そう、教わりました。そうすることで、彼はいつまでもオイラ達の中に生き続けるんだと。
オイラ達は時間軸の上を歩いている。細い細いその道は、ちょっとでも足を踏み外せば永遠の闇が待っている。
だから、生あるものは一生懸命に生きる。様々な光を放ちながら。

4年前のその日から、そんなことを考えるようになりますた。
すんません、まとまりが無くて。



                          (ぎん太)
   ロンの書く文章は、素直すぎて
   照れ臭くなります。
   自分が忘れているものを思い出させてくれる。

                          (圭吾)

-----------------------------------------------------------------------------

       素直で、素敵な文章に、出会ったときに、
       「う〜ん、素直で、素敵な文章を、ありがとう」って、言ってみる。
       ってのは、すごく大事なことなんだろうなぁ、と思ってみます。
       照れないで(笑)

       ところで、圭吾さんが、「思い出したもの」ってなんですかぁ?

       きっと、その「思い出したもの」も、キラキラ光ってるのでしょうか。^^

       (hiro)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   「一粒の砂を見て、宇宙を知る」という言葉があって、肉体も宇宙の大きさから見れば、ミクロの世界。
   しかし、その中の心はマクロの世界に到達できるという意味です。
   特に仏教を信仰しているというわけではないのだけど、
   仏教の世界では因縁で世界が構成されているといわれ、
   因が種で、縁が環境と考えると種では何も生まれず水分と温度といった環境によって芽を出す。
   また、印は源でありその源は今の自分の心。今ある心そのもので言い。
   そして、その心は間断なく流れてこそ、清らかである。

                          (序呂序)

-----------------------------------------------------------------------------


       うんうん。ローリング・ストーンズだね(笑)

       でも、たとえば、その因縁の流れの中に、身を置いたときに、因と縁が、連綿と続く、
       命の歴史を、断ち切りたくなる。そんな瞬間ってないですか?(笑)

       革命でもいいし。壊れるということでもいいし。

       そして、救われるってことでもいいし。

       たとえば、自己救済としてのアートって、どうですか?

       たとえば、草間弥生って、どうですか?

       そこにある、命って、どうですか?

       (hiro)
?-----------------------------------------------------------------------------

   そんな瞬間の狭間で物質も言葉もみんな自分の存在の現在には過去も未来も含まれている。
   時間という列を固定しただけでは、生命の由来も将来も語れない。
   時は一瞬のうたかたであるのかもしれない。

   ルイス、トマスというニューヨークの国立がんセンターの所長さんの言葉で「生命は一つでない」
   なぜ一つ出ないかというと「あなたの体の中には、大腸菌が何億いると思いますか?
   サナダムシだっているかもしれないし、いろんな微生物が生きています。
   一つ一つの細胞だって生きています。だからあなたの命は一個出ないし、周りの人の死でさえも
   一つの死として考える必要はない」

   我々のは、複合体としての命の状態が重なっているのだということです。
   その複合的な生命状態としての総体としての自分という存在があるってことなんです。
   我々はたくさんの命の流れの乗り物である。
   いろんな揺らぎの中に自分が入り込むといろんな人の考えやものの見方にいろいろ影響を受けるのだけど、
   今はただつき動かされるように一瞬しか訪れない、そのときしかない隙間への欲望みたいなもので
   自分の中から出てくるものに夢中になって外と中の世界の狭間みたいな部分でモノ作りしている感じ。
   理屈を乗り越えたとこでのものすごく原始的な感情っていう衝動かなぁ、
   それをひたすら表現したいって作り続けることが自分にとって自己救済になっているような気がする。

   草間弥生は人とは何であるか言うことの生死の境目のところで戦ってきた、目に見えないもの、
   その背後の気配というものを未知の分野の影とか神秘とかを引き出すため荷の素材として
   コラージュというものがあって、生きていくということと死ぬということについての巨大な未知の分野に
   自分が挑んでいくって事でずっと表現し続けている人だと思うのだけど、
   1957年にアメリカにわたり前衛的な先駆者であったと思うし、今も走り続けるエネルギーはすごいなぁって
   思うけど、表現された作品は私個人としては余り、好きではないかな?
   同じ前衛的な人で同世代ならば、オノヨーコの自己表現のほうが好きかもしれない。

                          (序呂序)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   生と死のドラマを永遠に繰り返していくのは、人間も宇宙も同じ方程式なんだって思った。
   宇宙でも、壮大な生と死のドラマが展開されている。
   仏教では、宇宙には、地球と同じような星が沢山存在していると説いていて、
   死んだら、他の星に生まれるか、また地球に生まれるかは、その人がいかに生き抜いたか、
   何を成したか、善根によると説かれているんだけど、
   そう思うと一瞬一瞬が、とても大切に思えてくる。

                          (翠)

?-----------------------------------------------------------------------------

       圭吾さんのいう、素直ってことでいえば、
       今までの「反応」の中では、一番、翠さんが、素直ではないでしょうか?(笑)
       #これは、批評ですが、評価ではありません。

       宇宙と、自分の命の中のDNAみたいなものが、ぐるぐると、音を立てながら、
       ミキサーにかけられたみたいに、一緒に回っていくことを、感じられたら、
       それだけでもう、生きてきた/生きている意味があるような気がしますが。

       と言ってても仕方ないので(笑)、もうちょっと先まで。

       たとえば、宇宙って話なので、翠さんとは、宇宙の大きさについて、話をしてみたいが、
       いかがでしょうか??

       大きいと思いますか? 宇宙。
       それとも、小さい?? 宇宙。

       (hiro)
-----------------------------------------------------------------------------

   宇宙と自分の命(生命)を感じられたら、それだけでもう、生きてきた/生きている意味があると思う。
   でも、ぼくは、そこから、もっと生きてきた/生きている意味を突き詰めて、
   その人がそのひとなりの生きてきた証を残せばいいと思っているの。
   そしてね、その証を他の人が見て、そのことに気付き、共感してくれれば、
   どんなに素晴らしいだろうかと思っている。
   そしたら、世界はもっと素晴らしい世の中になるのになぁとも思ったりしている。
   宇宙が小さいか大きいかは、その人の心の状態によって、変化すると思う。
   僕は、大きいと感じている。無限の可能性を持った、大きい存在でもある。
   何故そう思うのかと聞かれたら、僕が宇宙は生命の源だと思うからなのかもしれない。


                          (翠)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   文章を読んで、ふと相対性理論の事を思い出しました。本来の解釈とは少し異なるかも知れないけど、
   楽しい事・充実した時間を過ごしていると時間の流れは早く、
   逆に楽しくない・充実していない時間を過ごしていると、時間の流れが遅いという風に取ってみたんですが。
   ロンちゃんが文の中で"ぼくらは短い一生を生きる。"と書いたのは、
   まさに上記の充実した時間を過ごそう(している)という強い意識の表れなのかなぁーと感じました。
   誰もがそうでありたいと思うけれど、おかんさんの書き込みにもあった、某国で不遇な生涯を終えた人達は、
   苦しい事に耐え、私達からすれば短い期間だったけれど、彼らにすれば長い時間だったのかもしれない
   という事を私は否めないと思います。

   "Mech licht(もっと光を)"とゲーテが最期に残した言葉だそうですが、
   もしかしたら彼には全然時間が足りなかったかもしれませんね。Carpe Diem!!

                          (anon)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   はじめまして。
   なんか、読んでたらムラムラ来たので書いてみます。許してぇ〜。

   「永遠」は終わらない時間のことじゃなくて、空間も時間も含めて
   しかもそれを超えた無限の広がりみたいなイメージで。
   具体的な形をもったイメージとして誰にどう見えるかは分からないし
   僕も想像するばかりで見たことはないけど、ロンちゃんが感じたのがそれであるなら、素敵だね。

   生誕以前への郷愁と死後への憧憬とは同じものだと気づいた時に、
   確かに今のこの時だけがそんな永遠から切り離された特殊な状態だってことが分かってしまう。
   伸び上がって届こうとしても届かない。永遠に触れようとすればする程、自分の小ささに限界を感じて。
   そうすると、伸び上がるのではなくて小さく(出来ればゼロに)なって、切り離される前に戻る(=死)しかない。

   そんなに遠くにあるものに、人は近づけるのか?と考えた時に、でもたまに気づく人がいる。
   むしろ永遠は、いつでも自分自身の中に「今、此処」にあるってことに。
   かなわないな、と思う瞬間。

   それは自分以外のものが決めたり教えてもらったりするものじゃなくて、
   自分の中から見つけ出さないと一生手に入らなくて、しかも見つけ出すのはすげー難しい。
   ってか見つからんだろう。それでもそれを手に入れるために人間は生きてるんだと思うのですが。
   気が付くと変な価値取りゲームに夢中になってばっかりだけどさ。
   永遠から切り離された中にしか、永遠を見つけ出すことは出来ないってのは矛盾みたいだけど。苦笑。

   場違いだったらごめんなさい。削除して下すって結構ですよ。

                          (姫)

 

 

 

 

   んーっと…すっごくこころに引っかかったのが「ひかり」っていうことばなんですね。
   光って身の回りにあるだけでいろんな種類があるじゃないですか。
   輝きの程度とか、光の色とか、ぼーんやりした光から鋭い感じの光まで。
   (専門的にどのように言うとかは全く分からないんですが、言いたい雰囲気は伝えられているでしょうか?)

   どんな光を放つことができるのか?
   これって人間の生き方そのものに突きつけられた、根本的な課題のような気がします。
   与えられた(それは往々にして短すぎたりもする)時間の中で、どのように輝こうとするのか?
   光のもと(この場合は自分自身かな)が存在しなくなっても、
   誰かに受け止められるような光ってどんなものなのか?

   決して恣意的に誰かに受け止めさせようとせず、精一杯光を放とうっていうスタンス。
   このスタンスの中に、上の問への考えるヒントがあるんじゃないか? 何かそんな気がします。
   (何でっていわれても分からないんですけど…)

   んーーー、、、まとまってないですね。(^^;;

               
                          (あっすぃ〜)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すぺしゃる・さんくす。
 Contact。